音話§さよならワレリー・ゲルギエフ…3…

もちろん、前回書いたことはワグネリアンの勝手な思い込み
に過ぎないことで、ワーグナーの音楽にもっと自由な解釈を
持ち込んでも許されることかも知れない。

とはいえ、後半2つに行ってきた。状況が改善されることは
あるはずもなく、巨大な音塊がワーグナーのデリカシーを押
し潰していくのを無表情に眺めていた。

『ジークフリート』は、4作品の中ではメルヘン的な要素が
強く、ふとした瞬間に気持ちの和むこともある作品である。
2003年の新国立劇場でのキース・ウォーナー演出による第二
幕は、過去に観た『ジークフリート』の中でも、より強くメ
ルヘンを前面に押し出した舞台だった。多少子供じみた部分
はあるにせよ、動物のぬいぐるみに象徴されたジークフリー
トの出自や空を飛ぶ小鳥……。それらを憧憬の眼差しで見つ
めるジークフリートの思いが切なく伝わってきたのだった。
もちろん続く場面は大蛇のファーフナーを殺すということに
なるにせよ、ジークフリートの母親に対する思慕が色濃く表
現されていた。

準・メルクルの指揮にいささかな問題はあったにせよ、キー
ス・ウォーナーの演出は、日本人に対してこういう舞台もあ
るのだと、かなり過激に挑発しつつも指環が持つ広大な可能
性を示唆していたのだった。

さて翻ってマリインスキーの第二幕。ファーフナーを挑発す
るさすらい人は、アイパッチを眼にあて忘れ、額にかかった
ままだった。さらに絶望的なことには私物であろう指輪をし
たまま登場(最初から最後まで)という舞台作業としては絶対
にあってはならないことを平然として立っていた。

もう何があっても驚かない。もちろん、自分の目線を下げて
観るようなこともしないと自己確認しつつ、シルクロードの
バザールにいるような民族衣装の少女が、なぜ銀管のフルー
トを持ってひらひら踊っているのだろう?と思ったりする。

憬話§我々の“バイロイト音楽祭”2008.08

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