認話§いじめる認識=侵略する認識

いじめを苦に自殺という連鎖が続いているような気がする。

一番不愉快なのは、いじめという“事実”を認識しなかった
あるいはいじめはなかったとかいう当事者に近い学校で働く
教育者の発想である。

それで思い至ったのが、いじめの認識=侵略行為の認識とい
う図式である。いじめを受けたり自分達の国が侵略されたり
そういうことを受けた当事者の認識は、明らかに被害者のそ
れであるのに、行為を行なった者達の自覚の薄さである。

“思えば侵略(いじめ)だったのかもしれない”という発言の
軽さは、ひょっとしたら過去に自分も学校のクラス内で行な
っていた可能性だってある。以前も書いたが、行為を為した
側よりも蒙った側の意識がどうであったかを慮るべきで、そ
の事実に眼を瞑って“でも友達だったし”であるとか“でも
善政も行なったんだし”ということを言っても、蒙った事実
に変わりはない。

今のような状況は、為政者の意識が国全体に及んでいるよう
にみえてならない。お上がそうなら、教育委員会だって校長
だって右へ習えで頬被りにきまっている。

繰り返す……「いじめた側は覚えていない。侵略した側も覚
えていない」……“ふり”をしている、左も右も。

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