劇話§花形歌舞伎昼之部・新橋演舞場

楽しみに、というより半分以上危惧をしながら出かけて危惧したとお
りになってしまった。『勧進帳』おける海老蔵の弁慶である。

所作台を暴れて踏んで無闇に大きい音をだすだけ、がなるだけ……。
『勧進帳』で笑いがでるところは、たぶん一か所だけ――振る舞い酒
でのやり取り――であるのに、本来笑わない場面2か所ほどで笑い声
が聞えた。なぜ富樫の「人が人に似たり……判官殿に……」といった
くだりで笑いが出るのか? 弁慶が大袈裟に眼を剥いてぎょろつかせ
たりするからだろうか。引っ込みの六法でも手拍子が出そうな気配に
なった。25日間の公演では観客の質もまた大きく変化する。大衆は時
に安易な方向に流れていく。

こういった笑いについて海老蔵が“うけている”と感じるとすれば馬
鹿も極まることになる。“本来笑いがでるべきでない場面なのに笑い
が出た”ということは、何かが問題なのであると受け留めなくてはな
らないのだ。

ああ……、海老蔵は弁慶になっていない。海老蔵のままである。先月
の定九郎も海老蔵であった。

人生の半分以上を過ぎて歌舞伎を観始めた。好きな人だったら、既に
30年のキャリアが過ぎている。そういった人達はおそらく同じ名跡を
二代は観ることができるのだろう。例えば幸四郎であり勘三郎など。
そうして“先代はこうだったああだった”と見比べての品定めが歌舞
伎鑑賞の醍醐味の一つだったりもするだろう。確かにテレビで昔の役
者を見ていたりもするが、それは経験には入らない。

遅く見始めたために、たぶん一代と半分とかそんな程度で時間切れに
なりそうである。当代團十郎の後は今の海老蔵が次を襲名することが
既定の路線なのは当然なことである。20年後には襲名しているであろ
う。

その時に“20年前の海老蔵は大根とかいう以前の問題で、芝居にすら
なっていなかったのに、それがこんな役者に成長するとは、予想すら
できなかった”と、将来の自分の見当違いを恥じたいのだ。

申し分ない素材であるのに、何を思い込んでいるのだろう。このとこ
ろ、先代の幸四郎や松緑の弁慶を映像で観る機会があった。海老蔵と
比較すること自体が早いといえばそれまでのことだが、彼らの情感豊
かな所作の一つ一つに込められた、弁慶の義経への敬慕、そして富樫
への感謝を画面から痛切に感じることができるのだ。

菊之助の富樫は声に難があり、弁慶との問答が成立するまでにはいか
なかった。芝雀の義経が細やかに演じていただけに惜しい気がした。

『皿屋敷』……松緑の播磨も、あの声を克服できず、ところどころの
笑い声のわざとらしさなどもいただけなかった。

『弁天小僧』……菊之助の線は細いがきっちりとまとめる力は、相変
わらず親孝行だと思わせる。確かにそつが無さ過ぎてというきらいは
あってどれも平均点というあたり、父親譲りというところか。

演舞場を出ると、ようやく晩秋の気配が濃くなってきていた。少しば
かり遠回りをして、金田中の前を通って築地の市場に向かい、波除神
社まで足を伸ばしてみた。

【ひだまりのお話の原点】

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