壁話§東欧ドミノから20年<Ⅲ>チェコの

[承前]

チェコとスロバキアが合わさって一つの国だということを知ったのは
ずいぶん後になってのこと。日本人があっさりと“チェコ”と言って
しまっているのはスロバキアの人達に悪いなあと思った記憶がある。

そのチェコスロバキアが“ビロード革命”4年後に“ビロード離婚”
してチェコとスロバキアに別れる光景には、それぞれの民族的な思い
が凝縮されていなのだなあと、特にスロバキア側の分離への強烈な意
志を思ったのだった。

ルーマニアなどと比較しても、ハンガリーやポーランド、チェコスロ
バキアといった国々は民主化が徐々にではあるが進んでいたので、遅
かれ早かれ体制が変わっていくだろうということは予感できた。

だが、我々のような世代にあっては1968年、ワルシャワ機構軍のチェ
コ侵攻で、無残に民主化が押し潰されたことを記憶している。民主化
の旗手だった書記長のドゥプチェクが推進しようとした“人間の顔を
した社会主義”は、あっという間に雲散霧消し、その後ドゥプチェク
は営林署の職員として働くという扱いを受けたのだった。

ビロード革命以降、ドゥプチュクの名誉も回復され、亡命生活を続け
ていたラファエル・クーベリックもその後“帰国”して、プラハの春
音楽祭でスメタナの『我が祖国から』を指揮している。

ルーマニアのように流血の中の革命もあれば、チェコのように結果的
に緩やかに体制が移行した革命もあったわけだが、それはそれぞれの
国が1989年の時点でどういう状況下にあったかということによる差だ
ったということになる。

そんな東欧ドミノのシンボルが“ベルリンの壁”に象徴される東ドイ
ツの政権崩壊なのであるが……。
                            [続く]

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