壁話§東欧ドミノから20年<Ⅳ>壁の崩壊

[承前]

かくして――時空列は前後するが――ペルリンの壁崩壊という最大の
象徴についてである。

↓ブランデンブルク門上の四頭立て馬車
画像

ベルリンの壁ができて東西ベルリンが隔てられたのが1961年のこと。
その時が6歳で、壁が消滅する1989年には35歳になっていた。28年と
いう間、多くの人間が壁の内側に“閉じ込め”られていたのだった。

東京オリンピックの時、東西ドイツは“統一チーム”を作って大会に
望んだ。小学生程度の頭では、ごく短絡的に統一されるのだろうかと
思ったりした。それが子供の考える程度だったということは、その後
四半世紀も“壁”が維持されてしまったことでもわかる。

それが1989年の11月あっけなく壁が開いてしまったわけだが、もちろ
ん“あっけなく”という瞬間的な出来事ではない。崩壊に至るまでに
様々な要因が重なって東欧における社会主義体制が崩れていったわけ
なのだ。確かにゴルバチョフが推進したペレストロイカやグラスノス
チが大きな発端になったのは間違いないが、それは社会主義の綻びを
感じ取った彼らが推し進めた維持政策だったはずだ。

それが結果的に崩壊への道筋を作ってしまったというのは、ゴルバチ
ョフにしても本意ではなかったのではあるまいか。それは1991年8月
のソ連邦崩壊の時のゴルバチョフの“抵抗”を見れば理解できるよう
な気がするのだ。

そうではあっても、東独最後の年にベルリンを訪問してホーネッカー
書記長に“いわば”最後通牒を突きつけたのはゴルバチョフであった
りする。ホーネッカ体制の末期は相当にガタがきていたことは間違い
なく、それすらも自覚できなかったホーネッカーは結果的に失脚した
のだった。その後11月9日に壁が開放されたのはご存知のとおり。

壁が開いてドイツが再統一されてからようやくベルリンに足を伸ばす
ことができた。1998年のことで、壁開放から10年足らず。冬に訪れた
ものだから、旧東ベルリン地区の寒々しさばかりが記憶にある。その
後数年で劇的に変貌を遂げていくわけではあるのだが。
                            [続く]

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