板話§十二月大歌舞伎昼の部~操三番叟~

昼の部は、朝一番の『操三番叟』が観てよかったと思わせる一本。

中村勘太郎が、若手随一の踊りの名手であることは疑いようがない。
日本舞踊が年齢を経るごとに円熟を重ねていくという部分とは別に、
テクニックという点に関しては、歌舞伎役者の中でもトップクラスに
位置していると思うのである。

勘太郎の操三番叟を観ていて考えていたのは、シェーンベルクの『月
に憑かれたピエロ(ピエロ・リュネール)』とかストラヴィンスキーの
『ペトルーシュカ』といった作品に登場するピエロである。ビデオで
ミハイル・バリシニコフといった達者なダンサーが踊っている振付を
見るのだが、そのピエロの振りと通じる部分がありそうだという印象
を持ったのだった。

そういう意味で勘太郎の“ダンサー”としての可能性が、ジャンルの
境界を超えて広がりそうだと勝手に思うのだが、そういう“場”なん
てないんだよなあ、もったいない。

というわけで昼の部の個人的な“一本”は勘太郎の踊りだった。お染
久松の『野崎村』は“長かった”と感じた。なかなか筋が進んでくれ
ないもどかしさがあったのである。勘三郎と三津五郎の『身替座禅』
は、勘太郎の印象が新鮮だった分、手慣れたところが鼻について損を
したというところか。

ところで宮藤官九郎(クドカン)の『大江戸りびんぐでっど』について
である。というか、この人の作品を観たという記憶がなく、今回の舞
台を観た限りでの感想。

残念ながら“歌舞伎”という優れた演劇素材を生かしてというところ
までは行かないままに終わってしまった。あれだけの役者、そして歌
舞伎座という空間を使いながら、生かされなかった役者のほうが多か
ったというのが何ともはやである。思いつくだけでも勘三郎、福助、
橋之助あたりの存在感の薄さ。あれだけの役者を使いながら人物描写
が中途半端になったというのはひとえに“脚本の弱さ”なのである。

結局は“歌舞伎”を徒に浪費しただけのことだったとしか思えない。

まずもってストーリーの居心地の悪さがあった。“ぞんび”を“ハケ
ン”にという今時の話題とか“死”と“生”の捉え方もまた未消化だ
ったことに加えて、芝居を貫く太い芯のようなものがなく、連続する
場面場面の変化も場当たり的なように思われて、どんどんストーリー
が尻すぼみになっていったように思われたのである。

まあ、某日刊紙の“声欄”で「こんなものを歌舞伎座で上演するなん
て……」云々という投書が掲載されていたのを読んだが、そこまでと
は思わない。ただし居心地の悪い芝居ではあるということなのだ。

……再演は難しいだろうと予想。

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