継話§自分自身の連続性のようなもの

鰻屋とか焼き鳥屋の“タレ”は何十年も注ぎ足し注ぎ足しして、連綿
と味を保ってきていると自慢する店は少なくない。

……“タレ”と同一視しようとは思わないが、我が身の六十年余りも
注ぎ足し注ぎ足しの歴史だったのではあるまいか。この世に生を享け
て以来、身長は3倍以上に、体重は20倍ほどに成長したが、そもそも
のベースは、誕生以来どれほど変わっているものか。

中でも記憶の引き出しは圧倒的に増加しているはずで、60年前の微か
な記憶から、前日の夕食で食べたあれやこれやと膨大な記憶が蓄積さ
れているのである。

数十年前を克明に覚えているかと思えば、一時間前のちょっとしたこ
とを忘れてしまっているのは記憶の妙としかいえず、それが“タレ”
のごとくに注ぎ足されて今が成り立っているのだ。

誕生から死まで、人は自分自身の中における営みを途切れらせること
なく、隙間ない連続性の中で時間に寄り添って生きていくのである。

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