テーマ:昭和

週話§日曜諸相~もんじ焼き~

昔々のその昔、実家があった町のお話である。 町内には必ず一軒、小さな駄菓子屋があった。そんな小さい店の奥で 冬になると、鉄板テーブルを設えて近所の子供相手に“もんじ焼き” が始まるのだった。 今流行りの“もんじゃ焼き”をもっともっとシンプルにしたもので、 水溶き小麦粉に醤油を垂らし、それを鉄板で焼くだけのことである。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~コカ・コーラ~

[承前] コカ・コーラが日本に入ってきたのは太平洋戦争後のことだとばかり 思っていたら、1914年(大正3年)に高村光太郎が作った『狂者の詩』 の中にコカ・コーラが登場していた。全部は長いので抜粋するが…… コカコオラ、THANK YOU VERY MUCH 銀座二丁目三丁目、それから尾張町 電車、電燈、電線、電話 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

呟話§一言つぶやき~有楽町スバル座閉館~

スバル座に初めて行ったのは、高校1年生の時だったから1970年…… ↓ストリートビューに見る外観 ……10月のことで、ビートルズの『Let It Be!』が封切りされたのを どうしても観たくて、群馬の田舎からはるばる観に行ったのだったが そんな本邦初のロードショー劇場が、この10月で73年の歴史に幕を下 ろすと聞き、時…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

顧話§今日の歴史~後楽園球場5万5千人~

1978年4月4日、キャンディーズ解散コンサート。 伊藤蘭が「普通の女の子に戻りたい!」と解散発言したのは1977年の 夏だった。 伊藤蘭とは同学年だったこともあって、少しばかり驚きはしたが、熱 心なファンであるとかそういうこともなかったので、彼女たちの解散 騒動はそれほど記憶に残っているわけではない。 そうして…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

悼話§萩原健一さん(ショーケン)

テンプターズのリードヴォーカルとして、テンプターズの解散後は、 俳優として『前略おふくろ様』などなど、多くのドラマに出演して、 ユニークなキャラクターで活躍を続けていた。 中学生の時がグループサウンズ全盛時代で、おびただしいグループが 競い合っていた。トップに君臨していたのはザ・タイガースで、テン プターズは常に彼らの後ろ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和五十年代~リクルートスーツ~

[承前] 大学卒業を前に就活していたのは、1977年(昭和52年)のことである。 その当時に“リクルートスーツ”なる概念は存在していたかもしれな いが、実際に自分が会社訪問に着て行っていたのは、ごくごく普通の ブラウン系の上下で、リクルートスーツの類ではなかったのだ。 同様に他の連中で、いかにもリクルートスーツを着…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~拿捕の日常~

[承前] かつて、日本と韓国の間には“李承晩ライン”という境界線が引かれ ていた。韓国側が独自に設定した“排他的経済水域”ということだ。 略して李ラインと呼ばれていた境界をこえた日本の漁船は、韓国側に 拿捕(だほ)されては、長期間の抑留を強いられたのである。 物心ついた昭和三十年代後半、しばしば拿捕のニュースが流れ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

古話§晴ーれた空ー そーよぐ風ー

おかっぱる(岡晴夫)が歌った『憧れのハワイ航路』はヒットしたのは 1948年のことだった。 自分が生まれる数年前のヒット曲だが、なぜか口ずさめるのは不思議 なことである。幼少期の我が家にはラジオしかなく、ハワイ航路と同 じく数年前のヒット曲が頻繁に放送されたわけもないのだが。 そうして歌える自分が生まれる以前のヒット歌…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~ランニングシャツ~

[承前] 夏はTシャツの季節である……などと書いたが、我々の子供時代には Tシャツなどと洒落た日常着はなくて、ガキのみなさんの夏の定番は ランニングシャツと相場は決まっていた。 朝起きたら、パジャマからランニングに着替えて一日を過ごすのであ る。だから夏の終わりには、上半身がランニング形に日焼けしてしま うのだ。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~麻雀~

[承前] 麻雀を覚えたのは高校2年の時だった。麻雀好きの同級生に誘われて “卓を囲んだ”のである。 初めは訳もわからず見よう見まねで牌を並べてだったが、2か月もす れば、まがりなりにゲームに参加できるようになった。といっても、 しばしばチョンボをしては同級生から呆れられを繰り返していたのだ が。 初めて上がった…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~ボウリング~

[承前] ボウリングが隆盛を極めたのは昭和40年代のことで、民放各社はこぞ ってボウリング番組を制作し、ゴールデンタイムに放送されることも あった。 男性プロボウラーだったら矢島純一や西城正明、女性では中山律子や 須田開代子といった面々がテレビ画面を独占していたこともある。 その流行は人口13万ほどの我が町にも押…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

悼話§西城秀樹さん(新御三家)

自分が生まれた1954年に比べると、一歳下の1955年生まれには際立っ たタレントが揃っていると感じている。例えば十八世中村勘三郎のよ うな存在が、それを象徴していると思うのだ。 同い年の野口五郎と、1956年早生まれで同学年の郷ひろみとともに、 新御三家と呼ばれた西城秀樹も、そんなタレントの中の一人だった。 何度も脳…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~東京の都電に~

[承前] 都電に乗りたかった。なかなか東京に行く機会はなかったが、1969年 にアマチュア無線の国家試験を受けるために東京に行った時にチャン スがあった。 泊まらせてもらっていた板橋の親類のところから池袋に出て、そこか ら神保町に行ってみようと考え、池袋駅東口の都電ターミナルに行っ てみると、既に少なくなっていたとは…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

顧話§今日の歴史~4人組男声グループ~

1957年3月22日、ダークダックスがデビュー。 4人組男声グループとしては一番の古株かと思っていたが、彼らより 2年早い1955年にデューク・エイセスが結成されていた。ボニージャ ックスは1958年の結成。 デューク・エイセスは寄り合い所帯でメンバーの入れ替わりも少なく なかったが、ダークダックスは慶應のワグネルソサ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和五十年代~フォーク並び~

[承前] 例えば銀行のATMに始まって、劇場などのトイレの列だが、かつて はバラバラ思い思いに並んでいた。それでは非効率だということで、 日本でも“フォーク並び”が始まったのは昭和五十年代の後半頃では なかったかと記憶する。 社会的な広がりの浸透が遅い日本においては、比較的スムーズに浸透 していったように思うが、これ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~東京電環~

[承前] 東京で予備校通いを始めたのは昭和四十年代の終わり頃。一か月おき くらいに実家を行き来していた。利用していた当時は国鉄である。 片道2時間ちょっとだったから、日帰りで往復することができた。最 寄駅へは高崎線からも東北本線からも一度乗り換えて、どちらからも 似たような所要時間なのだった。 そして切符の券面に…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和五十年代~球団史上初の最下位~

[承前] 1974年、巨人はV10を達成できず、同時に長嶋茂雄が現役を引退した ので、彼の選手としてのキャリアは昭和三十年代から四十年代にかけ てのことだった。 引退した翌年1975年には監督に就任。キャッチフレーズとして掲げた のが、いかにも口当たりのいい“クリーンベースボール”というもの だったが、あまりにも本能…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~マイルストーンは~

[承前] 1950年代に生まれた我々の世代にとって、年齢などをわかりやすく判 断する目安の年がいくつかあった。 1964年(昭和39年)の東京オリンピック、あるいは東海道新幹線開業に 始まって、1970年(昭和45年)の大阪万博、七十年安保、さらに加えて 1972年(昭和47年)の札幌冬季オリンピックというマイルストー…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~アンノン族~

[承前] 1970年3月、当時の平凡出版(現・マガジンハウス)が創刊したのがグ ラビア・ファッション誌“アンアン”である。アンアンに遅れること 1年ちょっと、1971年5月に集英社が同じく“ノンノ”を創刊した。 どちらもファッションをメインとした誌面構成だったが、それ以外に インテリアやクッキング、そして当時の“デ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和四十年代~自分にとっての~

昭和五十年代に続いて四十年代も取り上げておこう……どれほど連載 が続くかどうかわからないが。 基本的には西暦優先で物事を考えるので、昭和四十年代ということは 1965年から1974年までであると便宜的に決めておく。そして、自分に とってこの10年は実に目まぐるしく動いた10年でもあった。 そもそも十代のはじめから二十代…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和五十年代~ウォークマン~

昭和三十年代話もネタが尽きつつあるようで、ここで昭和四十年代と 五十年代を振り返ってみることにした。 初代ウォークマンが発売されたのは1979年7月。就職して2年目に入 っていたが、一年後輩の新入社員が発売されたばかりのウォークマン を手に出社してきたのが最初である。 例によって新製品には手を出さずにぐずぐずしていて、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~正月~

[承前] 前にも一度書いたような気はするが、時効だろう……ということで、 かつて実家にいた小学校低学年の頃の正月模様について書いてみる。 親達はどうだったか知らないが、大晦日も変わらずさっさと寝かされ た。明けて元旦の朝、家族揃ってお節料理とお雑煮をいただくわけだ が、なますや黒豆みたいなものは、年末に自宅で作っていた…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~クリスマスとは~

[承前] 間もなくクリスマスであるが、もちろん特別な何かをするわけではな いのが、相変わらずな我が家の日常である。 まだ小学校に通っていた頃、パーティ券を買わされたらしい父親が、 町に1軒だけあったキャバレーもどきのクリスマス・パーティに出か けていったことが何年か続いた。 ↓毎日新聞のページで見つけた当時の様子…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

覚話§六十年前の記憶はあるか

今から60年前というと、1957年で満3歳になっている。人間の記憶は 何歳くらいまで辿れるものか――産湯に浸かったという記憶の持ち主 もいるようだが――遠い遠い遥かな過去に思いを馳せてみると……。 3歳、もしくは4歳の時と思しき迷子の記憶が浮かんできた。両親の 仲人をしてくれた人のお宅にうかがって、先方と親が話をしている間 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~白黒テレビ~

[承前] 実家にテレビがやって来たのは1962年(昭和37年)のことだった。父親 がケチだったのか本当に金がなかったのかはわからないが、なかなか テレビを買おうとせず、子供心に恥を忍んで知り合いの家にテレビを 見せてもらいに行ったが、もちろんチャンネル権などありはしない。 かくして、待望久しいテレビが我が家にやって来た…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

週話§土曜片々~小学校、中学校の夏休み~

なぜだったのか今もって理由はわからないことだが、小学校と中学校 の夏休みの期間が東京あたりより短かったりしていたのだ。 始まりは同じ7月21日なのに、東京は8月一杯休みだったところを、 北関東のあたりは8月25日で終わってしまうのである。寒冷な積雪地 域であれば冬休みを長く、夏休みを短めにという設定であったが、冬 休みの長…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

稲話§標準価格米なるもの

今は昔、食糧管理制度なるものがあり、米は政府管理の食糧であると 位置づけされていた時代があった。 1973年4月、予備校生活を始めるべく東京に出てきて代々木の安下宿 で自炊生活をスタートさせた時に“標準価格米”と呼ばれる、無難と いうか、廉価な米を日常食として利用していたのである。 値段は確か10kgで2500円ほどだ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

坊話§卒業文集という黒歴史

田舎町の中学校を卒業したのは1970年3月。その日は大阪万博が開幕 した日でもあり“70年安保”の年でもあった。ほとんど大昔の歴史で しかなくなったが、そんな47年前の“黒歴史”が手元にある。 ……卒業文集という“あれ”だ。しかも文集編纂委員もやらされてい て“飛躍”という題字を考えたのが自分だったりするのだ。3年生の …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

懐話§昭和三十年代~いわゆる床屋~

[承前] 実家の町を出て東京暮らしを始めるまでは、ずうっと同じ床屋に通っ ていた。家のある路地を出てすぐ右にその店はあり、歩いて30秒足ら ずなのである。 店は夫婦によって営まれていて、後に息子も加わったが、本当に普通 の床屋だった。理髪椅子もその当時は電動などはなく、ペダルを踏ん で上下させたり倒したりというものだ…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

悼話§藤村俊二さん(振付家)

藤村俊二の存在を初めて知ったのは、1966年からフジテレビが放送を した洋楽ベストテン番組『ビートポップス』の振付師としてである。 テレビを見ている人間でも簡単に覚えられるようにと、シーカーズの 『ジョージーガール』とか、ミリアム・マケバの『パタパタ』といっ たあたりが記憶には残っているが、お手軽な振付ではあったのだが。 …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more