道話§司馬遼太郎『花神』を読む

もう30年も前、初めて読んだ司馬作品である。いわゆる“司
馬文学の読者”などといわれる財界人や政治家といった種族
のような読み方をしていたとは思えない節はある。

長州の貧乏医者だった村田蔵六が、政府軍の戦略参謀として
徳川幕府を滅亡に追い込むという話がメインであるが、司馬
は『花神』で人間それぞれの役割について語っている。乱暴
な言い方をすれば“人間機関説”とでも言おうか。

司馬は維新(≒革命)における長州の指導者を3種類に分けて
論じた。吉田松陰を夭折する思想家として、高杉晋作をやは
り志半ばで仆れる革命家として、そして実践家として村田蔵
六(後の大村益次郎)を描いた。

誰もがそうするように、それでは己はそのうちのどれに入る
だろうかと考えても、実はどれにも入らないことに気がつく。
村田蔵六は実践家というにはそれ以上に“戦略家”でもある
からだ。世に戦略家と呼ばれる人間は数えるほどしかいない。
司馬も『花神』の中で信長とかナポレオンとかいった名前し
かあげていなかったと記憶している。そして「戦略家の才能
を持っていても、その能力を開陳する機会のないまま一生を
終わる人間のほうがはるかに多い」と書く。

確かにナポレオンが1946年の世界に居合わせたとしても、彼
が19世紀初頭に為したようなことはできるはずもないだろう。
もちろん村田蔵六だって、あの時代から少しでもずれていた
ら戦の指揮をすることもなく、一介の貧乏医者で一生を終わ
ったかもしれないのだ。

もちろん、逆に村田蔵六なしでも明治維新は完遂されたこと
だろう。ある人が、自分の意思とは別に想定外の役割を受け
持たされることもあり得るわけで、それもまた運命と簡単に
片づけられるものなのだろうか。

【去年の今日】音話§書くも恥ずかしブルックナー&マーラー

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