勝話§自由律俳句のこと

自由律俳句は20世紀に入った直後、河東碧梧桐が提唱し始めたのだが
碧梧桐に続いて、荻原井泉水、種田山頭火、尾崎放哉といった我々も
知っている人たちが続いて形作られた。

個人的には五七五や季語に拘らない形態を俳句と呼ぶことに疑問符を
付けたいと考える側に属しているかもしれないが、それとは関係なく
無視のできない存在であることは否定できない。

とりあえず最初に挙げた4人の代表作のようなものを紹介しておく。

弟を裏切る兄それが私である師走/碧梧桐

たんぽぽたんぽぽ砂浜に春が目を開く/荻原井泉水

うしろすがたのしぐれてゆくか/山頭火

咳をしても一人/尾崎放哉


こうした作品の存在を知ったのは、たぶん高校の現代国語あたりでは
なかったかと思うが、そうした作品を読んだ時でも、頭の中では自由
律なるものに対して釈然とすることがなかったのは、ある意味で原則
主義に囚われていたということだろう。当時を思い出すなら“殊更、
俳句という呼び名で存在を主張する必要はなく、新しい形態として、
違った呼び名を付ければいのに”と考えていた節がある。

そしてその後、安西冬衛が創った“てふてふが一匹韃靼海峡を渡って
行った”という短詩の存在を知ったが、その瞬間自由律俳句との境界
線がどこにあるのかと……いくら考えても、そもそも小動物レベルの
脳の大きさしか持ち合わせていない身にとっては、到底考えが及ばな
い深遠な世界と思われた。

というわけで、釈然としないまま生涯が終わりに近づいている。自由
律俳句の存在は否定していないから、思い立って自由律俳句をひねっ
てみることもないわけではないが、当然ながらうまくいった試しなど
はない。

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